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エテモンキ


週末終わり。
湯島天神はこの週末例大祭してました。
神輿の揺れ方って見てて面白い。なかなかカオスやね。

土曜日。
朝ごろごろした後、東大の五月祭見に行きました。お目当ては東工大ビッグバンドのロスガラチェロス。
大学一年のこれまた五月祭で初めて聞いて衝撃を受けたのがきっかけで興味もってたんだけど、昨日まで機会がなく昨日聞いたのが二回目です。

やっぱビッグバンドはいい!
ビッグバンドやりたいなぁ。正直コンボより断然ビッグバンドをやりたいのです。コンボはコンボで楽しいけどまた違った魅力がある。
あ~、どっかにビッグバンド落ちてないかなぁ~。

その後新宿に行き麺通団で昼飯くって本買ってCD買って渋谷方面にぶらぶらしながら行って雑貨買ってまたぶらぶらしながら六本木とか新橋とか通って帰宅。

んでもって今日は昼まで寝てから本読んでました。勉強系じゃない本。なかなか面白い。

ただ当然めんどくさいことは降ってくるのでその処理もしてた。






今いろいろと勉強はしてるけど、現実的には何もできていないし、何も起こっていない。1人でシコシコ勉強してネットで己の世間知らず加減を晒すくらいのことしかしていない。
去年の秋はそのことでかなり焦っていた。
友人とかには「将来診療する気はあまりない」なんて言ってるけど、社会的なものさしから言えば間違いなく「将来診療している」可能性の方が圧倒的に高いわけだ。そこから逃れようと思ってもそう簡単じゃない。学士をとる年齢なら世間より最大4年間遅れている。これが強烈なコンプレックスのようなものになっていたんだろう。正直言って今でも現実として転がっているわけだけど。
勉強しなければいけない、何か現実に動かさなければいけない、何か形にのこさなければいけない、と精神的にゆとりがない。
理性的に自己分析もどき日記なんて書いたりしてまぎらわしてはいるものの、まぁゆとりがないのは確かだろう。明らかに「足りない」んだから。それが埋められるものなのか埋められないものなのかはおいといて。
もともと自分の力を最大限に活かすことを目標にして進路を決めたもんだからそれに縛られている感もある。プライオリティが一番高いもんだから負担に感じてしまったアメフトはやめた。
んで今はjazz研にまでそれがきている。二番目のプライオリティでやっていても一番の人から見ると不満なこともある。
jazzは心底好きだし、出来る範囲で出来るだけ仕事をこなしているけど、自分の持てる力を全てjazzに傾けることはできない。といってもその原因は個人的なものだし、目に見えないし、何も残していないので理解できない。悩みの種。
んで研究体験実習について東大PBI教室から内諾も得て医科歯科の承認も教育委員長に褒められながら得て順調かと思っていたが、教官との意思の疎通ができてなくて手続きが進んでいないことが判明。話が御破算になる可能性だってある。この実習を使って自分の勉強したこと考えたことを一つの形にするつもりだったのでショックは大きい。かなり。今は携帯電話が鳴るのを待っている状態。今一番の心配事。不安でやりきれない。これさえうまくいけば他のは大したことない気がする。

俺の今の原動力は何だろう?
「自分を活かしたい」のか「戻ることはできない焦り」なのか。MECEじゃないね。愚問。
「人事を尽くして天命を待つ」は良い言葉だとは思うけど、今は心底そう思うことはできない。何しろ焦ってるから。
まぁ自然体でいこうとは思う。

ここまで恥知らずな日記もそうないだろうな。
理由はない。書くことはなんかいいのです。



さてレポートを書かねば。
無計画を反省。だが変える心算はなし。
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あーあーあー

(ネガティブ注意)


最近疲れています。

なんか憂鬱なことばっかり起きる。

足りなくて焦ってた部分は相変わらず足りないままだし、順調にいってると思ってたことは問題発生してゴタゴタ。んでジャズでもやろうかっつってもジャズそのものよりも今は部長仕事が多いから、癒されるどころか悩まされる。


何も考えずに暮らせたらどんなに楽か。
まぁそんなことはありえんけど。

がんばっている部分をばっさり切っちゃえば楽になるんだろうけど、何のためにがんばってるかっつーと、結局は自分のためだから切っちゃったらぽっかり空白ができてしまう。


あーあ。
憂鬱やわぁ。

Laplace's demon


先日『「湯川秀樹物理講義」を読む』という本を読み終わった。

丸善でふと目に入り、あまりの好奇心に衝動買いしてしまった本。

ほぼ湯川秀樹著「物理講義」(昭和49年に日大で行われた三日間の集中講義の全録)で、ページの下段などに補注が付け加えられてる。

内容はニュートン以降、それぞれの物理学者がどのような人物でどのようなことを考え、物理学がどのように紆余曲折し、今ある世界がどのように不思議なものかを追い、最後には湯川博士の研究内容の考えなどまで書かれている。

帯に「高校生でも読める」とあるんだけどかなり難しかった。
たぶん半分も理解できてないと思う。
けどかなり面白かった。



シュレディンガーの波動方程式というのがある。
物理量の確率分布を記した量子力学の基本法則の一つだそうだ。
シュレディンガーは当時これを用いて自然界は連続であるといって波動一元論をとなえた。
例えば電子の動きを波動方程式で計算すると時間がたつにつれ無限に拡がっていくが、ある瞬間に位置を測ってみるとその場所は特定の場所に一瞬にして収束する(波動収縮)。ただしその場所はあらかじめわかることはない。
この非決定性に対し、決定論の立場から決定を与える法則があるはずだと異を唱えた物理学者のうち1人がアインシュタインで「神はサイコロを振らない」つー有名な言葉を残してる。

これらに関係して生み出されたのがシュレディンガーの猫の話。
詳しい内容はwikipediaででも調べてもらうとして、観測が行われるまで(波動収縮がおこるまで)猫が確率的(波動的?)に存在することを現してる。

イマイチ真に理解できない俺には認識の問題じゃないんちゃうか、と思うけど、二重スリットの実験なんかを見ると波動性というのもあるんかなぁと思ってしまったりする。
てか、やっぱさっぱりワカラン。


で、それより興味深かったのは、シュレディンガーは生物現象というのを決定論的に解釈しようとしていたということ。遺伝というものは決定論的に行われる。遺伝が決定論的に行われるということは、非常に複雑な高分子の何かに源があるだろうと、シュレディンガーは言ったそうだ。
この刺激をうけたのがワトソンで後にワトソンクリックのDNAモデルに繋がったという。

非常に興味深いね。
シュレディンガーはもともと哲学者を志していたそうだけど、それが故に物理というジャンルに囚われずに思案を巡らすことができたんだろう。


んで決定論に関連してラプラスの悪魔というのがある。
もし、世の中のすべての原子の運動を観測し、それらを瞬時に計算できる悪魔がいれば、この世の未来はおろか過去まですべてわかってしまうというもの。
もちろん物理的な存在と精神の存在の関係は明らかになっていないんだけど、興味深いね。
決定されていようが決定されていまいが、現実に精神は自主的な選択をもつように感じているんだからそんなものは意味はない、という考えもあって、俺もこれに賛成です。でもこう考えるとやっぱ精神て異質やね。
最も不確定性原理というものでまたもや物理の世界の中でこのような存在はありえないことが証明されてます。

悪魔つながりでいえば、マクスウェルの悪魔というのもある。
一つの箱の中に二つの部屋があって、分子の動きと二つの部屋を隔てている窓を開閉できる悪魔がいればエントロピーは増大することなく減少してしまうというもの。
なんでもこの決着は「観測結果を忘れる時にエントロピーが増大する」というものらしい。またもやわかりにくわぁ。


量子力学というのはわかりにくい。朝永-シュウィンガー方程式ともなるとさっぱりわからん。
類まれなる才能をもった人が生涯かけて作り出したものを結果だけ理解しようとするからわかりにくいんだろう。

この本の中で湯川博士もしきりにいってるんだけど、現在ある物理というのは、元は物理学者が濃密な思考の時間を費やしあちこち試行錯誤して難産した一つの結果であって、その結果でもってその人が考えていることを理解することはできない。ニュートンのプリンキピアだって、わけのわからないこともたくさん書いてあるんだそうだ。
量子がどうであろうと、人間の頭の中を飛び出して理論物理の世界に飛び込まない限り、やっぱ現実てのは過去あってのもので、現実をすべて知ることはできないんだから過去をすべて知ることも当然無理で、それはやっぱり現実を知ることはできないことを意味してる。
ここに書いてあることも俺の頭の中を忠実に再現しようと努力した結果出てきた文字の集まりだけど、正直頭の中にあるものを正確に伝えることはすごく難しい。

あ~、わからないなぁ。





最後に湯川博士が講義の〆に話したものの中から

「~われわれの網膜には中心の辺に非常に感度のいいところがあって、そこで見るように、視線は動きまわるわけです。ところが網膜というのはずっと広がっていて、中心からはずれたところもある程度見えている。~(略)~人間の眼で、視線の中心のまわりもぼんやり見えているということが、非常に重要なんです。中心に非常に感度のいいところがあるということ、しかしそのまわりにも見えるところがあるということ、この両方が大切なんです。
 人間の精神活動、知能活動、人間の生き方、学問するのでもなんでもいいんですけども、そこでもこの両面を活用している人が賢い人だと言えるでしょうね。片方だけの人はあまり賢いとは言えない。あんまりシャープだからといって裾野がまったくない人というのは、全部がぼやけている人と大差はないということになってしまう、この話はこれくらいにして、後は皆さんがどう思うかということにおまかせします。これで私の話を終わります。」

これで講義がしめられている。


いいこと言うなぁ。
人間を視覚に例えているというのがすごくうまいと思う。
一箇所だけ見えても、全体像だけ見えても、生活する上で支障をきたすだろう。また、どんなにクリアで広い視野をもっていても、流れ行く景色をただ見ているだけでは、良い視野をもっていることは無意味なものになるだろう。
見る対象物は現実だ。
見ることはできても、そのすべてを厳密に法則化したり、記述することはできない。自分が見た景色を口で説明しようとしてもできないように現実は複雑だし、他人が見た景色を理解しようとしても無理なように現実は多様性をもつ。
時間を消費することは未知の土地をまっすぐ歩くことだな。
景色は常に変わる。遠くから見えていたものが近くにいくと全然違っていたりするし、例えデジャビュがあってもまっすぐ歩いてるんだから絶対に同じものということはない。

多少湯川博士の言っていることと違うけど、こう解釈した。



うむむ。
理論物理は真に自然科学の哲学だなと思いました。
そういえば最近「量子コンピューター」なるものの基本回路をNECとかが開発したというニュースがあった。
よくわからんけどごっついらしい。


てか朝だわ。

蚊取り考

蚊が出ました。
蚊取り線香焚きました。

あまり効果なし。


で蚊を手軽に確実に撃退できるようなものがあれば爆発的に売れるだろうなぁ、と思い空想してみました。

蚊は空気中を自在に飛ぶ。それに対するにはどうすればよいか。
んで思い浮かんだのが超音波。

んでなんとなく「蚊 超音波」でググってみると、すでにそういうものがありました。フリーソフトで。

さっそくダウンロードして使ってみると、なんとなく近くに寄ってこなくなったような気がする。
ただうるさい。

なんでも蚊♀は血を吸う産卵期になると蚊♂が嫌いになるらしい。んでこのソフトではその蚊♂が出す羽音の周波数を出して蚊♀を遠ざける効果があるらしい。

そりゃー、蚊は近寄ってこなくなったかもしれんけど、スピーカーから蚊の羽音を出してりゃ世話ねぇわな。
周波数がそれほど高くなく、人間の耳に聞こえてしまうのです。


そこで思い出したのがテレビで見た(たぶんテレ東のWBS)超指向性スピーカー。ある特定のスポットだけに音を飛ばすことが出来る新技術。
玄関とか窓に設置すりゃ蚊入ってこないかも。

さっそくそれをググって見ると三菱電気の関連会社が商品化してる。
ただしお値段140万円。
蚊のために買うには高いわな。



そもそも問題は、蚊が
「夜中に耳元で飛び、その音で睡眠が妨げられること」
刺されて痒いのはそう気にならない。


問題は蚊と人間がいれば成立するものだからアプローチは
?蚊  ?人
の二通り考えられる。


?:蚊の問題は
1.音を出し 2.近寄ってくること

1に対して考えられる対策は
→音を出させなくすること
殺す・羽を毟り取る・羽を改造する(遺伝子改良?)などなど・・・

2に対して考えられる対策は
→近寄りたくなくする・近寄れなくする
蚊が嫌がる環境を人の周りにつくる・対象物をなくす(人が自殺)・殺す・羽を毟り取るなどなど・・・


?:人間自身の問題は
1.音を聞いてしまうこと

これに対する対策は
→音を聞かなくすること
?音が入らないようにする ?音が入っても気にならないようにする

?に対して
常に動いて音源が耳に近づかないようにする・その場所から逃げる、などなど。
?に対して
聴覚を破壊する・音に対する感受性を低くする・耳栓をする、などなど。



そうだ。耳栓をすればいいじゃないか。
気が向いたら買ってきます。


このあいだの火曜日は研究体験実習で配属希望だしてる教室のコロキウムってのに行ってきました。講義形式の勉強会みたいなん。
講師は元マッキンゼーの人、テーマは「問題解決能力」。

そこでMECEやら5Wやら4Cやらロジックツリーやらを教わってきました。まぁこれまで読んだ本の中にあって知ってたんだけど、余談でおもしろい話を聞けたのでよかったです。
これから毎週火曜日はこのコロキウムに出るつもり。

ちなみにその時に出た課題は
「銃による死亡者を減らす方法を3分以内に10個かけ」
俺は8つどまりでした。残念。


MECEはすごく便利な言葉と概念だと思います。
MECE=Mutually Exclusive, Collectively Exhaustive
つまり漏れなく重複なくってこと。
母集団をグルーピングする際にこれを頭においとくとすっきり整理できます。ロジックツリーを作る時の選択肢においても同様。


さて、また蚊が飛んできました。
蚊取り線香の匂いは好きです。
そういえば、湯島聖堂付近からいい匂いのする季節になってきました。
何の匂いかはまだわかりませんが、例えるなら、掘りたての筍の皮を剥いた時のような匂い。


とこんなこと書いている間に昨日までにネット上でやっておかなければいけなかった課題をするのを忘れていたことに気がつきました。くそー。

さて、寝ます。

国家・流動・硬直

先日書いたジョセフ・ナイ・ジュニアの「国際紛争」読み終わりました。
すげーいい気分です。
知的にエキサイティングで、最高の休日を過ごせました。


この本の内容とはちょっと違うけど考察。
思いつくままに書いたものなんで、くそ長いです。

要約すると、
・昔も今の人間は変わらないなぁ。
ってことと
・柔軟に対応することって大切ですね。
ってこと。
はい。


この本読み始めてすぐに当たりと思ったのは、この本のはじめに国際政治学の理論(リアリズム、リベラズム、コンストラクティビズム)を紹介し、実際の歴史においてそれらが一貫した論理となりえないことを豊富な事実と説得力のある論理で指し示していたから。安易な定式化をもって満足することなく、多元的に複雑な事実がなぜ起きたのかについて時代をおって考察していくのがすごくエキサイティングでした。
とある都合により世界史を習ってない身としても。


この本の内容とはちょっとずれるけど考察。

この本の第一章にこういう部分があった。
『リアリストのロバート・ギルピン(Robert Gilpin)は、「真面目に考えてみて、国家の行動について、20世紀の国際政治学者が知っていることで、ツキュディディスや紀元前5世紀のギリシャ人が知らなかったことなどあるのだろうか」という疑問を発した後、自らこう答えている。「究極的に言えば、国際政治は依然としてツキュディディスが特徴づけた通りのものなのだ」。』
著者はこれには議論の余地が残るとしながらもツキュディディスの議論についての有意性を認め、ペロポネソス戦争の要約をしている。

ペロポネソス戦争というのは古代ギリシャの辺境都市エピダムノスの民主派と寡頭制派が争った内戦をきっかけとしてアテネを中心とするデロス同盟とスパルタを中心とするペロポネソス同盟とが争った戦争のこと。

ツキュディディスは、その著書「戦史」の中で、この戦争の真の原因ではなく、戦争を不可避にしたのはアテネの力の増大であり、これがスパルタに引き起こした恐怖だと結論づけたアテネの歴史家。

これはバランスオブパワーの基本であり、第一次世界大戦や冷戦その他多くの紛争にも適応できる考え方だ。

そういえば以前参加したシンポジウムで東大の法学部教授が「法律というのは根本的なところでローマ法以来変わっていないのではなか」という内容の発言をしていたのを思い出した。

また、上記のペロポネソス戦争でスパルタとアテネの討議におくられたアテネの代表は「戦争において、予測できないものの果たす大きな役割もまた考えてみよ。戦争が長引けば長引くほど、多くの事態は偶然に左右されるようになるのだ。」と発現したそうだ。非常に理性的であり的確なもので興味深い。


なぜギリシャ・ローマの人々は2000年以上も通用する本質的なものを導くことができたのか。

昔の人間は賢かった。

と結論づけるのは簡単だけど、それはちょっと違和感がある。
古代には哲学が発達していた。
それは科学が進んでいる現在から見れば頓珍漢な印象があるんだけど、実はその部分が古代人の学問の本質ではなかったのではないか。

哲学というものは「それがなぜか」というものについてとことん追求する性質をもつ。
自然に対する哲学は普段の生活で見ることが出来ない部分に対して追求することが出来なかった。つまり知ることができる現在からみると、知らない人間の思考は非常に頓珍漢に見える。
しかし注目した今回は法と戦争だ。
対象は人間活動の結果生まれたものだ。答えは人間の中にある。つまり、対象は追求をつづければ本質にせまることができるものであった。
人間自体は古代だろうが近代だろうが関係ない。
戦争はいつでもその時代の人間と人間のある敵対心の結果生まれる衝突であり、法はその時代の人間が衝突しないための知恵だ。

規模が大きくなり、包含する情報が飛躍的に増大しても、人間の本質的なものは変わらない。古代人を生まれた瞬間に現代につれてくれば現代人と同じように考えるだろうし、現代人が古代で育ったなら古代人として考えるだろう。

ホッブズは万人の万人に対する闘争を自然状態と定義していた。要するに時代がいつになっても生きている限り自己を保存するために社会契約をし、その結果生まれたリヴァイアサン同士が闘争をする。

そのリヴァイアサンはすべて人間の作るもので、政府であったり同盟であったりするのだが、闘争が集団であるかぎりその本質は変わらないのだろう。

なぜか。
人間は生まれたときは0であり、全員そこから学ばなければならない。
古代も近代もその点で平等であり、その人間の活動が生み出したものの本質はそう変わらない。そして本質を追求する能力もそう変わらないのではないか。


うーむ。
ちょっと言いたいことからずれたから元に戻します。


ペロポネソス戦争であれ二回の世界大戦であれ、戦争を回避する努力は常に続けられていた。バランスオブパワーの考えは戦争をするたものものではなく平和を守るためのものであった。しかし、現実にはおこってしまった。

それがなぜか、という疑問に対して、著者は、バランスオブパワーを保つ同盟が柔軟性を失って硬直的なってしまっていたから、という考えを表している。
変化に伴って柔軟に同盟を組みなおせば戦争は起こることはない。勝てない戦争はしない。バランスオブパワーの考えに従えばこうなる。

柔軟であるということはもっと重要な意味がある。

第一次世界大戦でドイツが過去の事例にとらわれていなければオーストリアに委任状を渡さず戦争は始まらなかったかもしれない。ヴェルサイユ条約がドイツに対して柔軟であればヒトラーは戦争が終わってから建築家を目指していたかもしれない。

反実仮想だからその結果がどうなっているかはわからないけど、硬直的であることは衝突を生みやすくするだろう。
また、問題に対して硬直的であることはそれが間違っていた場合問題を必要以上に大きくする。

代表的な例は宗教紛争だろう。
宗教はその教義に極めて硬直的である。イスラエルとパレスチナが共に無宗教なら中東問題はもっと穏当なものになっていただろう。


お互いを理解できないことが原因の闘争ならば、理解しあえば闘争はなくなる。
なぜお互いを理解することできないことがあるかといえば、それはお互いが自分に対して硬直的なことが原因だ。ようするに相手を含めた現実をあるがまま受け入れ、その対応策を考えれば、その問題について両者を区別するものがなくなり、闘争はおきない。
もちろんこれはあまりに牧歌的であり、現実に完全に知ることなど不可能なんだけど。ただ相手を知り、相手が自分を知ることは闘争の確率を減らすことは確かだ。
9条を教義として絶対的なものと考えている人にとって少しでもそれを脅かすものは悪になるし、国粋主義者にとって国民の権利を増大させることは悪になる。知ろうとしない限り相反する教義は絶対分かり合えない。


現在はそれが格段に容易になっている。科学技術の進歩により世界は小さくなり、グローバリゼーションや多様化が進んだからだ。国家の枠もどんどんあやふやなものになりつつある。

この本の著者、ジョセフ・ナイ教授は1999年に「台湾は独立を放棄せよ」と、こんなことを言っている。
民主主義を世界で推し進めているアメリカからすればいたって不可思議な発現だ。
「台湾が独立によって得るものは形式的なものであり、実質的に得るものはほとんどない」としている。
ようするに国家の枠組みが揺らいでいる現代において、中国にとっては最悪のシナリオである独立に際するコストとリスクは莫大なものとなる。
以前紹介した「大地の咆哮」では、現在の中国政府が正統性を保っていられるのは台湾を統一するためという大義があるからだ、と述べていた。つまり、台湾は独立するために多大なコストを支払った結果、その結果中国にも深刻な混乱が起き、この地域に非常に大きな不確実性をもたらし、結局台湾は深刻なダメージを受けてしまう可能性がある。
それより、現在は国という枠組みをもたなくても地位を得ることができるのだから、その方が良い、ということだろう。
国家を硬直的に考えていると出てこない発想だろう。



思いつくままに考えていることを書いていったら長くなった。
そらそうだ。
あとちょっと。


自分を丸ごと肯定することは難しいけど、自分を崩すことも難しい。

俺は高校の時に先輩からその姿勢を教わった。
その先輩は「なるほど、きみって頭いいね~」ていう相手の意見をすぐ受け入れる人だった。
それまで自分の意見を戦わせることが大好きだった俺にとってその姿勢は新鮮であり、羨ましかったので相手の意見を聞いた時に必ず「なるほど」を言うようにした。
すると、あら不思議、相手の意見を格段に聞けるようになりましたとさ。

なるほどが言えない人は今度気をつけて言ってみましょう。

根性

今日は半袖で外出してみました。
ちょうどよかった。ビタミンDをたっぷり産生してきました。

まず六本木のチャリ屋いって軽くメンテナンスしてその後近くのカフェかなんかで勉強するつもりだったんだけど、ヒルズもミッドタウンも人人人!祭り?
結局ミッドタウン見物はもうちょい待つことにしました。


その後日比谷を通ると右翼が街宣車で何か叫んでる。滑稽や。
日比谷公園のあたりまでいくと九条教の人々が列をなして歩いてる。もしかしてデモ行進というやつか?日比谷のあたりから銀座まで行列が続いていました。
右翼も九条教も嫌いです。この人達は昭和から抜け出せてないんじゃないだろうかと思ってます。

そういえば街宣車が流す音楽って、救急車の次にドップラー効果を実感できるいい教材ですね。ちなみに九条教はなぜかサンバでした。

で、銀座のホコ天も人ばっかでした。
無事勉強してまた本買って帰ってきました。今んとこ順調。

今日の朝、amazonからも本が届いたんだけど、その本は昭和58年発行。俺より年上だわ。
たぶん読んでると手に臭いがつくんだろうな。


昨日書こうと思ってたことはまた今度。

あと3日。

雨ってこんなだったなぁ




雨は雨でも激しい雨が好きです。
ただ和風の家にいるのなら普通雨が好き。

今日はテストでした。
ただ昨日いつもどおりの生活をして、睡眠時間を削って勉強時間を割り込ませたため、今日はその調整をしなければなりません。めんど。

んでもって今日、学校終わってから高校の先輩であり、現在プロサクソフォニストである國末貞仁先輩と、もう1人小山弦太郎というサクソフォニストのジョイントコンサートに行ってきました。

んで、そこで中学まで同じで音大行ってサックス吹いてる幼馴染と高校一緒で音大いってフルート吹いてる友達に会いました。幼馴染の方は久しぶりに会ったんでいろいろと話聞いたら、中学の後輩とか同級生が女優になったり自衛隊員になったりローカルアイドルになったりしていることが判明。
まぁ、みんないろんな道進んでるはずの歳やもんなぁ。がんばらねば。

演奏は、さすがというかなんというか、当然の如く圧倒されてしまいました。
サックスという楽器は、あーいう音が出て、あそこまで音をコントロールできるのだ、ということを思い知らされたというか、教えてもらったというか、、とにかくすばらしい演奏で癒されてきました。
やっぱクラシックもいいねぇ。


写真は3日くらい前に旧岩崎邸庭園に行ったときの写真です。
家から近い。
岩崎家ってー簡単に云うと三菱財閥の創業家です。華麗なる一族の親玉。邸宅はジョサイア・コンドルの作。
こんな和風の家に住みたいわぁ。洋風より和風好き。

さて、眠くなってきた。たぶん夜あたりに一つ書きます。
プロフィール

udnkui

Author:udnkui
香川県出身。
京大大学院の博士院生。医科歯科卒。jazz好き。神社巡り好き。独学での法律、政治、経済、経営等社会科学の基礎知識と国会議員、外資投資銀行(米・英・欧)、学際系研究室などでのインターン経験があります。
興味事項:社会、科学、自然、芸術
日々精進してます。

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