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合理性と論理性

いろいろ考えてたことをちょっと書く。

俺は論理的であることをすごく重要視してる。
なぜなら、論理的な思考プロセスを経ると情報のうち冗長部を排除し、本当に必要なことや正当なことなどがわかるから。

だけど、現実に常に論理的であることはできないし、あまりそうなりたくもない。
では普段どのような思考プロセスになっているのか。

どんな人でも普段は合理的判断の繰り返しの中で生きている。
これはそうあろうとしているのではなく、多くの場合無意識だと思う。
例えば、3日後に一つだけテストがあるという場合、そのテストに対し勉強するかしないかという判断において多くの人は勉強しないことを選択するんじゃないかなと思う。
あまり論理的思考には向かないけどあえてそれっぽく考えるなら、勉強しないよりした方がいいし、先に延ばす理由などないからするべきであるという答えがでてくる。

俺の場合、3日後のテストのために自由時間を削っての勉強という'苦痛'よりも自由時間を自分の好きなように使うことの方が良いと判断している、と思う。
で、その繰り返しの結果前日の夜や当日の早朝に後悔することになる。

この場合後悔するくらいならもっと前から勉強しろよ、ということになる。つまり見かけは合理的には見えない。だけど、その中では絶えず自分の中で選択肢を天秤にかけている。

この判断に影響を与えるのは単純に損得の問題もあるが、同じ条件ならすべての人がその通りに行動するわけでもなく、その日の気分などでも変わりやすい。
例えばそのテストに合格しなければ小学校からやり直しになるのなら勉強するだろうし、明日遠足ならば楽しみで勉強どころではないだろう。

合理的なことと論理的なことの違いは、まず論理的思考は習得しなければ使えないけど合理的思考は生まれた時から持っている。
また、論理性は普遍なもの(法則や規範など)が基準であり、物事のあるべき姿をとらえ、人的な不確かなものを排除する理想的性質にあるのに対し、合理性はその基準自体が不明確であり、その時々の価値判断や時間を越えた政治的判断にも影響される現実的性質をもつ。

もちろん合理的であり論理的でもあることはあるのだけれど、現実にはこの2つを満たすことはなかなかない。観察する立場に立ってみると、多く場合合理的ではあるが論理的ではなかったり論理的であっても合理的ではなかったりする。
実際には論理的選択肢を取る以上その中に合理的判断があったものと考える。


集団において、これはさらに複雑になり、個人としての論理的判断と合理的判断に加え、集団としての論理的判断、合理的判断が加わる。
ただ集団において、その集団が論理的ではあるが合理的ではないという選択肢をとることはほぼないといっていいんじゃないかと思う。

例えば行政の場合、理想である状態を目指しつつも常に現実との妥協点を模索しながら実現可能な政策をとっていく必要がある。ここで高いレベルの判断力と倫理が求められる。
例えば行政は特定の集団を不当に特別扱いしてはならないという規範がある。つまりこれが論理。
しかし特別扱いをすることによって、自分達の省の影響力が増し判断者の評価が上がったり、直接判断者自身の利益に跳ね返ってくる場合、その現実利益の衡量による合理的判断により不正を働いてしまったりする。


長くなったのでまた次回。
今日はゴッドファーザーパート?後編とパート?を見ました。
良かったです。
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プロフィール

udnkui

Author:udnkui
香川県出身。
京大大学院の博士院生。医科歯科卒。jazz好き。神社巡り好き。独学での法律、政治、経済、経営等社会科学の基礎知識と国会議員、外資投資銀行(米・英・欧)、学際系研究室などでのインターン経験があります。
興味事項:社会、科学、自然、芸術
日々精進してます。

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