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純粋さの哲学(長文)

昨日つらつらと書いたのは最近発見したことがあったから。

最近学生ではない生活を送っていたので、自然と学生生活ではない考えをすることが多かった。
自分の根本にある目標をたっせいするためには何をどのように実行していけばいいかということ。

目標は「日本の歯科医療をかえるための大きな力になる」ということ。
しかし、そのウォンツは人のためになりたいとか、自分の力を生かしたいというものにある。その一つの形として俺は歯科医療を選んだ。

そこからさらには職業を選ぶという部分でいろいろな実現形が考えられる。例えば教授になってその方法を考えるのもいいし、官僚になって行政を動かすこともできる。国会議員でも歯科医師会でもそれぞれある程度目標のために働くことができるだろう。

その選択は今はしないけど、考えてはいる。
その時に昨日の日記で書いた単純化・純粋化という行為を行っている。
自分は何を欲していて、そのためにはどういった選択をすればいいのかということを考える。

自分の考えを純粋化していくと、やっぱり一番根本の「人のためになりたい」や「自分の能力を生かしたい」という部分にいきつく。

そこに立ち戻って、より人のために働くにはどうすればいいのかを考えると、日本で働くより日本より恵まれてない国で働く方がより人のために働くよいう部分に一致するのではないかと思うことがある。


このことは自分の中で発見だった。
ぶっちゃけ、これまでボランティアとか恵まれてない国で働くとかってのは全く理解できなかった。
それが素晴らしいことなのはわかるけど、自分はそんなに善意だけでは動けないだろうし、他にもいろいろと刺激があるのにそういう方向を選ぶというのは考えられない、と思っていた。
ところが、最近、考えの一つの行き着いた先にそういう方向のものが自然と出てきたというのは自分の中で結構衝撃的な出来事だった。

そういう一つの結論があっても、お金持ちになりたいとか芸術に囲まれて生きたいとかいった現実的なものを他の要素を加えていくにつれ、この方向に進むことはあまり確率的には高くないかなとは思う。けれど根本の方向性の答えとしてそれがあるということで可能性の選択肢には確実に入ったということをしめしている。


行き着いた先にある純粋さ。
純粋であることと無知であることは結び付けて考えられることも多い。しかし、知識を得てそれを突き詰めたところにある純粋さもあるということ。

人の根本にある思いというのは純粋なのだから当然といえば当然。不純もつきつめれば純になる。


こういうことを書こうと決めていた今日の夕方。
テレビで京都の舞妓・芸妓さんにその見習いの仕込みといわれる人たちのドキュメントみたいなのをやってた。
これも純の一つの形。
芸を極める、舞を極める、おもてなしという姿勢。
確実に純なもの。もともと芸術というのは人間そのものの投射なのだから、それが純であるのは当然かもしれない。

千利休が「和敬清寂」という言葉を残していた。
和を持って敬い、清らかな心で清寂を得る、とでも読もうか。
茶の湯として一つの道を究めようと試行錯誤したあとの境地を表現したものとしては、至って純粋であってわかりやすいものではないかと思う。
ただ普通の人が読むものと確実に違うのは、初めにある純粋さではなく行き着いた先の純粋さであること。


始まりがあり、様々なものを得て、最後に純粋さを得る。
ある一つの哲学から「純粋さ」を得た気がした。
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プロフィール

udnkui

Author:udnkui
香川県出身。
京大大学院の博士院生。医科歯科卒。jazz好き。神社巡り好き。独学での法律、政治、経済、経営等社会科学の基礎知識と国会議員、外資投資銀行(米・英・欧)、学際系研究室などでのインターン経験があります。
興味事項:社会、科学、自然、芸術
日々精進してます。

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