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Laplace's demon


先日『「湯川秀樹物理講義」を読む』という本を読み終わった。

丸善でふと目に入り、あまりの好奇心に衝動買いしてしまった本。

ほぼ湯川秀樹著「物理講義」(昭和49年に日大で行われた三日間の集中講義の全録)で、ページの下段などに補注が付け加えられてる。

内容はニュートン以降、それぞれの物理学者がどのような人物でどのようなことを考え、物理学がどのように紆余曲折し、今ある世界がどのように不思議なものかを追い、最後には湯川博士の研究内容の考えなどまで書かれている。

帯に「高校生でも読める」とあるんだけどかなり難しかった。
たぶん半分も理解できてないと思う。
けどかなり面白かった。



シュレディンガーの波動方程式というのがある。
物理量の確率分布を記した量子力学の基本法則の一つだそうだ。
シュレディンガーは当時これを用いて自然界は連続であるといって波動一元論をとなえた。
例えば電子の動きを波動方程式で計算すると時間がたつにつれ無限に拡がっていくが、ある瞬間に位置を測ってみるとその場所は特定の場所に一瞬にして収束する(波動収縮)。ただしその場所はあらかじめわかることはない。
この非決定性に対し、決定論の立場から決定を与える法則があるはずだと異を唱えた物理学者のうち1人がアインシュタインで「神はサイコロを振らない」つー有名な言葉を残してる。

これらに関係して生み出されたのがシュレディンガーの猫の話。
詳しい内容はwikipediaででも調べてもらうとして、観測が行われるまで(波動収縮がおこるまで)猫が確率的(波動的?)に存在することを現してる。

イマイチ真に理解できない俺には認識の問題じゃないんちゃうか、と思うけど、二重スリットの実験なんかを見ると波動性というのもあるんかなぁと思ってしまったりする。
てか、やっぱさっぱりワカラン。


で、それより興味深かったのは、シュレディンガーは生物現象というのを決定論的に解釈しようとしていたということ。遺伝というものは決定論的に行われる。遺伝が決定論的に行われるということは、非常に複雑な高分子の何かに源があるだろうと、シュレディンガーは言ったそうだ。
この刺激をうけたのがワトソンで後にワトソンクリックのDNAモデルに繋がったという。

非常に興味深いね。
シュレディンガーはもともと哲学者を志していたそうだけど、それが故に物理というジャンルに囚われずに思案を巡らすことができたんだろう。


んで決定論に関連してラプラスの悪魔というのがある。
もし、世の中のすべての原子の運動を観測し、それらを瞬時に計算できる悪魔がいれば、この世の未来はおろか過去まですべてわかってしまうというもの。
もちろん物理的な存在と精神の存在の関係は明らかになっていないんだけど、興味深いね。
決定されていようが決定されていまいが、現実に精神は自主的な選択をもつように感じているんだからそんなものは意味はない、という考えもあって、俺もこれに賛成です。でもこう考えるとやっぱ精神て異質やね。
最も不確定性原理というものでまたもや物理の世界の中でこのような存在はありえないことが証明されてます。

悪魔つながりでいえば、マクスウェルの悪魔というのもある。
一つの箱の中に二つの部屋があって、分子の動きと二つの部屋を隔てている窓を開閉できる悪魔がいればエントロピーは増大することなく減少してしまうというもの。
なんでもこの決着は「観測結果を忘れる時にエントロピーが増大する」というものらしい。またもやわかりにくわぁ。


量子力学というのはわかりにくい。朝永-シュウィンガー方程式ともなるとさっぱりわからん。
類まれなる才能をもった人が生涯かけて作り出したものを結果だけ理解しようとするからわかりにくいんだろう。

この本の中で湯川博士もしきりにいってるんだけど、現在ある物理というのは、元は物理学者が濃密な思考の時間を費やしあちこち試行錯誤して難産した一つの結果であって、その結果でもってその人が考えていることを理解することはできない。ニュートンのプリンキピアだって、わけのわからないこともたくさん書いてあるんだそうだ。
量子がどうであろうと、人間の頭の中を飛び出して理論物理の世界に飛び込まない限り、やっぱ現実てのは過去あってのもので、現実をすべて知ることはできないんだから過去をすべて知ることも当然無理で、それはやっぱり現実を知ることはできないことを意味してる。
ここに書いてあることも俺の頭の中を忠実に再現しようと努力した結果出てきた文字の集まりだけど、正直頭の中にあるものを正確に伝えることはすごく難しい。

あ~、わからないなぁ。





最後に湯川博士が講義の〆に話したものの中から

「~われわれの網膜には中心の辺に非常に感度のいいところがあって、そこで見るように、視線は動きまわるわけです。ところが網膜というのはずっと広がっていて、中心からはずれたところもある程度見えている。~(略)~人間の眼で、視線の中心のまわりもぼんやり見えているということが、非常に重要なんです。中心に非常に感度のいいところがあるということ、しかしそのまわりにも見えるところがあるということ、この両方が大切なんです。
 人間の精神活動、知能活動、人間の生き方、学問するのでもなんでもいいんですけども、そこでもこの両面を活用している人が賢い人だと言えるでしょうね。片方だけの人はあまり賢いとは言えない。あんまりシャープだからといって裾野がまったくない人というのは、全部がぼやけている人と大差はないということになってしまう、この話はこれくらいにして、後は皆さんがどう思うかということにおまかせします。これで私の話を終わります。」

これで講義がしめられている。


いいこと言うなぁ。
人間を視覚に例えているというのがすごくうまいと思う。
一箇所だけ見えても、全体像だけ見えても、生活する上で支障をきたすだろう。また、どんなにクリアで広い視野をもっていても、流れ行く景色をただ見ているだけでは、良い視野をもっていることは無意味なものになるだろう。
見る対象物は現実だ。
見ることはできても、そのすべてを厳密に法則化したり、記述することはできない。自分が見た景色を口で説明しようとしてもできないように現実は複雑だし、他人が見た景色を理解しようとしても無理なように現実は多様性をもつ。
時間を消費することは未知の土地をまっすぐ歩くことだな。
景色は常に変わる。遠くから見えていたものが近くにいくと全然違っていたりするし、例えデジャビュがあってもまっすぐ歩いてるんだから絶対に同じものということはない。

多少湯川博士の言っていることと違うけど、こう解釈した。



うむむ。
理論物理は真に自然科学の哲学だなと思いました。
そういえば最近「量子コンピューター」なるものの基本回路をNECとかが開発したというニュースがあった。
よくわからんけどごっついらしい。


てか朝だわ。
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プロフィール

udnkui

Author:udnkui
香川県出身。
京大大学院の博士院生。医科歯科卒。jazz好き。神社巡り好き。独学での法律、政治、経済、経営等社会科学の基礎知識と国会議員、外資投資銀行(米・英・欧)、学際系研究室などでのインターン経験があります。
興味事項:社会、科学、自然、芸術
日々精進してます。

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