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取引と運命

(8月20日の日記)


つぶやきまとめ
8/13(一部改変)
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「人生のすべてを賭けずして極められる技などない」いやぁルネッサンス期の人もいいこと言ったもんだ。
学校や会社で何かに打ち込むのは誰でもできる。学校や会社という垣根が無意味になるくらい一生懸命になるにはそれが好きじゃないとできない。仕事や勉強が好きである必要はないけど好きだとより資源をかけ他分野より秀でることができる。
経済ぽく言うと好きであることにより限界費用が低くなり生産の均衡点が高くなるてことか。
普通は24時間という資源を限定的にしか使えてないんだからより多くの資源を注ぎ込めることはより多くの生産を約束する気がする。しかし好きであることが必ず有利であるとは限らない。なぜなら仕事における生産には値段がつき、それはそもそも仕事により大きな差があるからだ。
貧乏しながら好きなことする人もいれば金の為に好きでない仕事をする人もいる。金銭ではなく効用について拡張しても同じだろう。
しかし金の為に仕事をする場合給与体系が問題になる。なぜならプライベートに仕事しても金に反映されない。なぜなら金は成果よりも時間に払われているから。
もちろんプライベートに費やした努力は間接的に成果になり給与にも反映されるかもしれないが、その前に非効率な部分でナッシュ均衡があるだろう。
どうすればいいか。時間ではなく努力に応じた報酬にすればいい。これで金の為に仕事している人の生産性は上がる。
しかしオーナーでない限りその増分をすべてくれてやるわけにはいかない。そして個人の努力は見えないため代わりに観察可能な指標を置かなければいけない。
例えば医師の生産性を上げるために成果報酬を入れる場合何を指標にすれば良いか。公務員の場合は。重要なのはその指標が生産を代表していることと、指標をごまかされる可能性があることだ。歯科の売上歩合給なんて患者にとっては過剰診療を喚起するだけの迷惑なもんだ。
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実は初め、柄にもなく恋愛について書こうとしてました。それこそこの日記のタイトルのようなことを。
柄にもなかったんで書いてるうちに自然に別な方向にいきましたが。
様々な形の男女関係をゲームとしてとらえると思考実験としてはおもしろいもんです。恋愛は理屈じゃなく本能であるけど、現実の世の中には理屈で割り切れる関係は腐るほどあるだろうと。

まぁ結局書かなかったのでもう書きませんが。


インセンティブ報酬は医療の世界でも取り入れられてるけど、そのほとんどが不適切な設計になってるのでは、というのが俺の考え方。
そもそも医師の場合、一般企業で使われる売上げという尺度で労働の価値を決められない。生み出す価値に対して適切な価格をつけることができないし、そもそも医師の目的はなんだという議論がある。診療科や病院環境、患者の属性、病気、重傷度などをコントロールすることができない。
また、専門性と業務の独立性が高く、隠された情報や隠された行動が数多くあることが予想される。

上にあげた歯科の歩合給なんてほんとに酷いと思う。
出来高払いの歯科で売上げによる歩合給なんて導入したら、ただひたすらに過剰診療を誘発するだけ。確かに大いに努力を引き出すインセンティブを与えるが、方向が違う。歯科医師側からみると生活の糧を稼ぐのに丁度良いシステムかもしれないが、患者にとって良いことはなく、そんな医院には絶対行くべきではない。


患者が相対するのは医師とコメディカルだが、彼らの行動は患者とは別のところからも影響を受けている。もしかしたら訴訟を恐れて過剰診療しているかもしれないし、病院の経営者から病院ランキングの指標を上げるために特定の診療に注意するよう指示を受けているかもしれない。

患者の側からすると病院内のことはわからないので情報公開を求めるなり、隠された行動がおこらないような契約をしなければいけないが、正直日本の患者は医師にくらべて圧倒的に弱く、そんなことはできないだろう。

ここでいろいろと考える。
患者にとっての一番よりも自分の儲けが優先する医師とその逆の医師がいると仮定してスクリーニングができるか。
例えば大学病院ならば医師の給料は低い。管理者の儲けるためのインセンティブも低い。ならば現場にそうした過剰診療のためのインセンティブがしかれてなく、医師もそれで良いと思っている人間が集まっているかもしれない。(ただ医師の立場からみると、大学病院で肩書き得ることはもしかしたら研究がうまいということのシグナルでしかないかもしれない。)
じゃあ患者第一の医師は大学病院以外にいないかというと、外の病院の方がより多くの患者を診れるかもしれない。
あぁ、患者第一というのが診療の質か量か定義していなかった。それに大学病院じゃ切り方が悪い。



が、なんか眠くなったのでここで終わり。
こういう風なことを連想してしまうので、つぶやきで最後まで書こうとしなくてよかったです。





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12月3日追記




患者からみて自分を診てもらう医師をどのようにスクリーニングするのか、というのは今後議論が興ってくる分野なのだと思う。個人的にもすべき事だと思う。
病院スクリーニングはすでに民間部門主導のランキングと公的部門主導の病院機能評価機構があるけど、基盤が整えば情報はどんどん精緻化される。患者にとっても病院も大切だけど、それ以上に自分を担当する医師の質が重要なわけだから。

逆に医師の側からすると、これまで卒業大学やら勤務病院という個人へのプレッシャーの低いシグナリングで済んでたのに、個人を特定されるとなると当然いろいろと反発がおきるだろう。
「やましいことがなければ公開すればいいじゃないか」
というのは明らかに物事を単純化しすぎたものの見方。社会の中で組織に属している以上、やりたくてもやれない状況というのが存在する。また、価値判断が医師側と患者側でそもそも違うという問題もある。


医師は何によって縛られるべきなのか。


非常に難しい問題。
ヒポクラテスの誓いは医学史上、9割9分まで正しい価値判断だったわけだけど、現在ではパターナリズムの象徴として正しくないとされる。すべて患者に決定させればいいものでもない。患者自身が自分で決定する事を望んでないかもしれない。科学的なエビデンスだろうか。確かに科学的であることは医療の正当性を保障するものだけど、不確実性が消えるわけではなく、目の前の患者さんにそれが本当に適応できるのかということはわからない。

この辺の制度設計には社会的なコンセンサスというのが重要なわけだけど、社会の範囲をどのように画定するのかがまた問題なわけだ。
政府の制度設計の問題なのだから社会というと国内全体を指しそうだけど、そう簡単でもない。
なぜなら医師は社会的威信の高い職業であり、その職業集団の中で独自の価値観をもっている。例え、全国民のコンセンサスを正確に制度に落とし込んだとしても、社会心理的に医師個人にはそれを破る理由があり、それが倫理的に問題であるという認識にも至らないことが予想されるからである。
こうした場合、社会と医師集団の間に深刻な溝ができ、大きな政治的コンフリクトを生む。それこそ盛大に「医療崩壊」などとキャンペーンが行われるだろう。


医療は社会的に重要であり、医療行為は非常に神聖な行為なんだろうと思う。
しかし、それとそれを行う医師個人の行動とは線引きをしなければならない。
医師個人にはそれぞれの極個人的な金銭的、社会心理的なインセンティブがあり、それに従うことに批判をすることは筋違いというものだろう。医師も人間。
そういった医師の個人的なものを認めることは医師の多様性を認めることになる。


これが医師の個人評価をすべき理由。


まだ医療の情報公開に関しては基盤すら整ってない状態なので5年以内にどうこうということはないだろうけど、それこそ20年30年後を見据える必要があるのだろう。
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udnkui

Author:udnkui
香川県出身。
京大大学院の博士院生。医科歯科卒。jazz好き。神社巡り好き。独学での法律、政治、経済、経営等社会科学の基礎知識と国会議員、外資投資銀行(米・英・欧)、学際系研究室などでのインターン経験があります。
興味事項:社会、科学、自然、芸術
日々精進してます。

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